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先日、雨の日の路線バスでの出来事。始発駅近くで乗った私は、幸いにして座席に腰かけることに成功した。雨は時間を追うごとに強くなっていき、近距離でも徒歩で行くことを妨げられた人々で、バスの車内は混み合うこととなった。最近のバスは、シルバーシート以外にも優先席が設けてあり、いざという時にも立っていることが大変な乗客が座席を確保しやすいように工夫されている。私が座っていた座席もその優先席で、バスの壁に小さな優先席のマークが貼られていた。 混み合ったバスに長時間立っているのは存外に大変なことである。バスが走り出して30分近くは経ったろうか、途中のバス停で、多数の一般客に紛れ、赤ん坊を前に抱えた女性が乗り込んできた。むろん他の座席は埋まっている。その女性は私の横に立った。優先席の出番である。この座席は手すりも付いていて、赤ん坊を抱えた状況で立ち上がるには楽だし、なにより赤ん坊とはいえ混雑したバスの車内で、抱きかかえたまま、長時間立ち続けるというのは大変なことに違いなかった。私は、意を決して声をかけた。「よろしければどうぞ。」席を立った。その瞬間に、その女性は私の声を遮るように「大丈夫です」と強く返した。不意に拒否された私はそのまま「そうですか」と答えて座り直すしかできなかった。その時の女性の顔は、私が席を譲る言葉をかけた瞬間に、ちょっとした不安の顔になっていたのをはっきり覚えている。目が怯えていた。そして子供を私から遠ざけるように、体の方向を変えた。その時つくづくと感じたのは、子育ての大変さである。ここで言う大変さとは、子供を育てる上での徒労という訳ではなく、むしろ社会とは切り離された場所で、手探りの状態で子供を育てなくてはならない大変さである。昔はどうであったかは知らないが、少なくとも私が子供の頃は、近所の知らない人が、子供を連れているというだけで話かけてきたような気がする。私が泣いている時は、困って私をたしなめていた母に、近所のお婆さんが、子供は泣かしておいたらいい、その内に泣きやむよとアドバイスをしていたり、逆に私が悪いことをしていたときに、知らない人に怒られることもしばしばあった。社会全体で子供の面倒を見ていたのである。ところがバブルが崩壊した頃から、社会が子供の面倒を見なくなった。その子供を母や父にだけに押しつけるようになった。母や父は子育ての十分な知識がなく辛い思いだけが残る。どの様に育てたらよいか分らず、空回りをする。だから家庭内教育も上手くいかない。 よく市民フォーラムなどで、父親の子育て参画などといった意見が出るが、父親にとってはかわいそうな話で、不況のこの時勢に家族を養うためボロボロになるまで働いて、子育ても見ろと言われるのだ。今までどうしてこの問題が言われてこなかったかと言えば、父親の役割を社会全体が担っていたからで、これが急速に収縮してきたのはこの数年のことだ。女性にしても同じだ、父親不在の時は社会が彼女の支えになっていたのに、その支えが衰退し、父親が不在の時は頼るものがない状態である。先ほどの子供を抱えた女性の不安な表情は、無関心な社会から急に声をかけられ、不意をつかれた顔にも見える。普段アクションのない場所から急に手が差し伸べられ、その手が安全なものかどうか決めかねた不安さと私は見る。個人主義とは誰が言い始めたことかは知らないが、人に関心のない社会は単に無関心主義になってきているだけではないか。
文責・針谷 允之
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